───解放しろ、全てを。

村上春樹が読みたい

「村上春樹は読んだことがないんだ」

 

僕がそう言うと、彼女は何を言っているのかわからないという表情を向けた。まるで晩飯はまだかねと尋ねると、さっき食べたじゃあありませんかと言われた痴呆症の老人のように。うん。そう。いい感じだ。良い感じに、村上春樹っぽい。

僕は彼女のリアクション───表情ではなく言葉としての返答が欲しかったのだけれど、彼女は僕の次の言葉を待っているようだった。

 

「読んでみようとはしたんだ。何度か」「何度か?」

 

正確には2回だった。1回目は大学生の時。良い唄を書く後輩と、叙情的なギターを弾く、これもまた後輩が『海辺のカフカ』について話していた。そんなやつらが話していたのだから、読んでみようという気になった。読んだからといってどうなるわけでも無い。とにかく読んでみようと思った。

 

「過去の話だよ」

 

そう、過去の話だ。後輩たちが話していた村上春樹を読んでみたいと思ったけれど次の日には忘れていたことも、その1年後、偶然本屋で見つけた『ノルウェイの森』を自分の本棚に並べてから今まで一度も開かなかったことも、僕にとっては、世界史の1ページ目でシュメール人が都市国家を形成していたのと同じことだった。つまりは、単なる過去でしかなかった。世界史をよく知らない人は、メソポタミア文明辺りを想像してくれればいい。メソポタミアを知らない人は、メソポタミアを知らない人は、僕にとっては単なる過去でしかなかった。

 

「もう、読む気は?」彼女はノートPCの画面から目を離さずに言った。「読む気はないのね?」

 

僕は答えるのを躊躇った。返答によっては、今すぐに読まなければならないような気がした。あるいは、永遠に読まないままか。

 

「そんなことはない」

 

そんなことはなかった。そんなことはなかったから、僕は正直にそんなことはないと言った。それだけのことだった。そんなことはなかった。しかも、そんなことはないというのは読む気がないことはないというだけでなく、今すぐに読むということもないこともないという意思表示にもならなかった。何にもならなかった。あと、読みづらかった。つまり、危うく自分の行動に制約がかかるところだったが、すんでのところで回避することができたというわけだ。まるで、クラピカの鎖を受けずに済んだ団長のように。

けれども僕は、続く言葉を探すのに手間取った。手間取っていたので、今度は彼女を待ってみた。彼女は沈黙を感じるとタイピングの手を止め、こちらを向いた。

 

「じゃあ今読んでよ」僕の顔を見ながら、彼女は言った。「読んでよ。今」

 

体言止めだった。僕が反論するのを予想して、強めに言ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしかすると、沈黙を破るためたけに無意味に発せられた単なる音声だったのかもしれない。無意味な。ただ、ここで重要なことがひとつだけあった。彼女が僕に読んでほしいのは、今、今、まさにこの、今ということだけだった。

 

「ノルウェイの森は僕の家にあるかr「今読んで欲しいの。私は」

 

食い気味の倒置法だった。略して食い倒置だったが、略す必要は特に無かった。村上春樹を読むのが今である必要も特にないように思えた。とはいえ、無意味な音声などではないことは確信できた。そもそも、今書いているこの文章よりも無意味なものがあるとは到底思えなかった。

もう3時を過ぎていた。

明日は月曜日だったし、というかとっくに日付を過ぎているのでもはや今日だった。

 

「やれやれ」

 

その言葉が彼女に向けられたものなのか、あるいは自分自身に向けたものなのかは分からない。重要なのは、彼女が僕に今読んで欲しいと言ったことも、時計が3時を回ったことも、僕にとっては単なる過去でしかないということだった。